一貫させるということ

いつも通りDLsiteの成人男性向け同人作品の新作をチェックしていると「乳首責め特化」というコンセプトの作品を見つけた。サムネイルやタイトルにもそう書かれているので間違いはないだろう。何気なく作品の詳細に進んだところ、その作品はいくつかのトラックに分割されていて、それぞれのトラックで乳首責めにまつわるプレイをしているようだった。このようにトラックをわけて段階的にプレイが進んでいく構成*1というのは珍しくないのでそのときは何も思わなかったのだが、最後のトラックのタイトルを見て激しい怒りを覚えた。

なんと、本番プレイがあるではないか!

「乳首責め特化」を謡うなら、最終トラックも乳首責めプレイの完了を示すシナリオにするべきだろう*2。最終トラックの本番プレイの存在により、これまでの「乳首責め特化」なトラックがすべて最終トラックに向けた前戯ということになってしまい、作品のコンセプトが見事に崩壊してしまっている。非常にもったいない。

本事例のように、最終トラックの本番プレイが原因でコンセプトが崩壊してしまった作品は後を絶たない。おそらくなんらかの意図(購買層を広げる等)があるのだろうが、この後付け感満載のトラックの導入によって一体どれほどの「本物の乳首責め特化」を望む人々が落胆したのかについて考えるべきだろう。このような作品たちの存在に圧迫され、わざわざ「本番なし」と明記しなければならなくなった本物の作者たちの悲哀が私には聞こえる。

一貫したコンセプトのもとに生み出された作品にこそ、人は真に惹きつけられ、結果的に長く愛される本物の作品・作者になりうるという点を理解してほしい。

勿論、そういった作品には惜しみなくお金をつぎ込むことを約束しよう。

*1:「1.出会い, 2.キス, 3.手コキ, 4.パイズリ, 5.本番」といったような並び

*2:乳首だけで絶頂するとか